バイオリン渡辺茂夫についてご紹介します。
幻のバイオリニストと呼ばれた、渡辺茂夫さん。
渡辺茂夫さんに起こった悲劇の真相についてはさまざまな情報がありますが…
病気の真相が気になりますよね。
渡辺茂夫さんのプロフィールや使用していたバイオリン、病気の真相…
晩年の介護をしていた父親や母親について詳しくご紹介します。
バイオリン渡辺茂夫は天才と呼ばれた
バイオリンの渡辺茂夫さんは伝説の神童と言われています。
茂夫さんの演奏を聞くと誰もが「天才」と言う理由が分かります。
1941年6月26日に東京で生まれた渡辺茂夫さん。
生母の鈴木満枝さんはバイオリニストでした。
叔父である渡辺季彦さんが経営するバイオリン教室で4歳からバイオリンを始めた茂夫さん。
両親の離婚をきっかけに季彦さんの養子になります。
茂夫さんは季彦さんのバイオリン指導を受けながら、1日7時間~8時間練習していたそうです。
季彦さんの猛特訓で茂夫さんはバイオリンの才能を伸ばし、7歳ではじめてのリサイタル。
13歳では日本の全てのオーケストラと共演していたそうですよ。
13歳の時に来日したハイフェッツの前で演奏すると「25年に1人の天才」と才能を絶賛されます。
プライドの高いハイフェッツにとってこれは最高の誉め言葉。
ハイフェッツは茂夫さんをジュリアード音楽院に最年少で推薦します。
期間は2年間、ホームステイであること、アルバイトはさせないという条件でアメリカに渡りました。
茂夫さんは14歳でカルフォルニアに語学研修し、地元のミュージックアカデミー講座を受講。
このころの茂夫さんはとても元気で、バイオリンを楽しんでいたそうです。
その後、ニューヨークに移りジュリアード音楽院に入学し、ガラミアン教授に師事。
ガラミアン宅に1年間ホームステイしますが、上手くいかずに人間関係に苦しみます。
このころから茂夫さんの演奏するバイオリンはとても悲しいものだったそうです。
ガラミアン宅を出た後も茂夫さんは人間関係に苦しみ、ホームステイ先を何度か変更していました。
そして16歳の茂夫さんは、精神不安定で精神科に通います。
助手としてジュリアード音楽院には残り、研究を続けながら治療をしていました。
その後ジュリアード音楽院に再入学しますが、茂夫さんは3畳ほどの狭いアパートに住み、日米協会からは月9,000円ほどしかもらえていませんでした。
アルバイトをさせないという約束も守られず、茂夫さんは月3万円ほどのバイオリン演奏のアルバイトをして生活していたそうですよ。
このころの茂夫さんはかなり精神的にきていたのでしょう。
同じアパートの学生に睡眠薬を飲むと自ら命を絶ちたいというような願望もほのめかしていたようです。
異変を感じた両親は帰国させるよう日米協会に何度も伝えましたが拒否。
茂夫さん自身も事件の2日前と3日前に日米協会に帰国したいと伝えますが、聞き入れてもらえませんでした。
そして、茂夫さんは1957年の11月2日に大量の睡眠薬を服用。
一命は取り留めましたが、重い障害が残ってしまいました。
その後日本に帰国しましたが、茂夫さんの音楽家としての人生は幕を閉じてしまったのです。
バイオリン渡辺茂夫の使用楽器
渡辺茂夫さんの使用楽器を調査しましたが、分かりませんでした。
茂夫さんの演奏を聞くとあまりのすばらしさに、とんでもない名器を使っているとしか思えませんよね。
しかし、戦後の日本でそう簡単に名器は手に入りません。
実際に茂夫さんの使っていたバイオリンは高価なものではなかったといわれていますよ。
茂夫さんの技術のすばらしさが分かりますね。
バイオリニスト渡辺茂夫の病気の真相
渡辺茂夫さんは睡眠薬を飲み過ぎて昏睡状態になっているところを発見されました。
その時の痙攣や高熱で脳細胞が破壊されてしまったと言われています。
日本の新聞では、原因は失恋により自ら命を絶とうとしたのではないかと書かれましたが、真相は分かりません。
なぜ未成年だった渡辺茂夫さんが睡眠薬を購入できたのか?
また、後頭部には大きな傷があったという話もあります。
自ら後頭部に傷をつけるとは思えませんよね。
本当に茂夫さんは自ら命を絶とうとしたのか?
この事故についてはアメリカと日本の国際関係から警察も早々に捜査を打ち切ったようです。
茂夫さんはしゃべることもできないため、本当のことは分からず今も謎が多く残っています。
しかし、茂夫さんは孤独だったことは間違いありません。
茂夫さんは中学生でアメリカへ渡り、言葉も分からず頼れる人もいません。
当時は日本人に対して差別もあったかもしれませんし、天才といわれる茂夫さんに対する嫉妬からのいじめもあったと思います。
現在とは違い、手紙を送るのに2週間もかかる時代で思春期の茂夫さんは本当に辛い思いをしていたと思います。
両親も茂夫さん自身も日米協会に何度も帰国させてほしいと頼んだのに、帰国の必要はないと判断されてしまったようです。
もし茂夫さんを日本に連れ戻すことができていたらと思うと、本当に悲しいですね。
渡辺茂夫の晩年は介護必須だった
事件後の渡辺茂夫さんは脳障害が残り介護必須でした。
半身不随になり、1人で歩くこともしゃべることも、バイオリンの演奏もできませんでした。
そのため、父の季彦さんが40年以上自宅で茂夫さんの介護をしていました。
365日、食事やお風呂、排泄まで全て季彦さんが介護していたようです。
ヘルパーさんにも一切頼まず、40年以上介護を続けていた季彦さん。
深く傷ついた茂夫さんをもう誰に預けたくないという思いがあったようです。
それでも自宅で誰の手も借りずに40年以上介護を続けるなんて普通ならできません。
茂夫さんは体も大きく、季彦さんも高齢だったため、より大変だったと思います。
季彦さんは本当に強くて、愛情深い方だったんでしょうね。
渡辺茂夫とガラミアンの関係
渡辺茂夫さんはジュリアード音楽院でガラミアン教授に師事し、1年間ガラミアン宅でホームステイをしていました。
しかし、ガラミアンと茂夫さんの関係は奏法の違いから上手くいかなくなります。
茂夫さんは弓を人差し指で深く持ち肘の上下で弾くアウアー奏法を基本としていましたが、ガラミアンはアウアー奏法に否定的でした。
ガラミアンは厳しい指導法で茂夫さんを奏法を矯正しようとします。
ガラミアンの奏法は現代奏法で体が大きい人向けの奏法で、まだ子供だった茂夫さんには難しかったのではないでしょうか。
そもそも茂夫さんのバイオリン技術は既にほぼ完ぺきに出来上がっていたため、ガラミアンの指導が茂夫さんを混乱させます。
さらに茂夫さんは15歳と思春期真っただ中。
奏法を否定されるのは、これまでやってきたことを全て否定されるのと同じですよね。
頼れる人も相談できる人もいない…
ガラミアン宅で過ごした期間は相当きつかったと思います。
渡辺茂夫の母はバイオリニスト
渡辺茂夫さんの生みの母は鈴木満枝さんでバイオリニストでした。
満枝さんは、季彦さんにバイオリンを教えてもらっていたそうです。
それがきっかけで満枝さんの姉の三枝さんと出会い、季彦さんと三枝さんが結婚。
渡辺夫婦に茂夫さんの面倒を見てもらい、満枝さんは浅草の劇場や進駐軍のキャンプなどでバイオリン奏者として働いていました。
その後、茂夫さんは渡辺家の養子となったようです。
茂夫さんがジュリアード音楽院にいたころ、満枝さんはシアトルに住んでいたようですが満枝さんとのエピソードはあまり残されていません。
そのため現在の満枝さんの情報はありませんが、年齢的に亡くなっている可能性が高いと思います。
渡辺茂夫の父の現在
渡辺茂夫さんの父、渡辺季彦さんは2012年に103歳で亡くなりました。
亡くなった原因は肺炎です。
季彦さんはバイオリン講師を100歳過ぎまで続けていました。
本当にバイオリンが大好きだったんですね。
季彦さんは亡くなる直前「私の子供は茂夫だけです」と何度も繰り返し言い続けていたそうです。
本当に茂夫さんを大切に、愛情を注いで育てていたことが分かります。
渡辺茂夫の実家とお墓
渡辺茂夫さんの実家は神奈川県鎌倉市西鎌倉です。
幼少期は現在の東京都港区白金である芝白金三光町に住んでいました。
お墓の場所については分かりませんが、渡辺家のお墓に入っています。
そのため、ご自宅の近くである鎌倉市にあるのではないかと予想します。
渡辺茂夫記念館
渡辺茂夫記念館はありません。
父の季彦さんは妻の三枝さんの死後に、鎌倉市の自宅を渡辺茂夫記念館にしようと思いました。
しかし、名義の関係などで断念。
そのため、日本近代音楽館に渡辺茂夫さんの遺品300点以上が寄贈されています。
茂夫さんが使用していた子供用サイズのバイオリンとフルサイズのバイオリンなども寄贈されていますよ。
ヴァイオリン渡辺茂夫の真相と晩年まとめ
バイオリン渡辺茂夫さんの真相と晩年の介護についてご紹介しました。
- 渡辺茂夫さんは天才バイオリニストだった
- 使用していた楽器は不明
- 病気の真相をご紹介
- 茂夫さんは晩年の介護が必須だった
- ガラミアンとの関係をご紹介
- 茂夫さんの生みの母鈴木満枝さんはバイオリニスト
- 養父の渡辺季彦さんは2012年に103歳で亡くなった
- 実家は鎌倉市西鎌倉
- 渡辺茂夫記念館はないが、日本近代音楽館に茂夫さんの遺品が寄贈された
渡辺茂夫さんの真相については多くの謎が残っていて分かりません。
しかし、留学していなければ…
事件がなければと思うと本当に悔しいですよね。
茂夫さんの演奏は子供が弾いているとは思えないほど、完璧で心に響きます。
茂夫さんや季彦さんが残してくれた音楽をこれからも忘れずに残していきたいですね。
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